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高雄山神護寺 沿革史

□ 高雄灌頂
 弘仁三年(812)、最澄は経典を通じての理解だけでなく、直接大日如来の灌頂を授けられたいとの要望を持ち、十一月十五日に金剛界灌頂、十二月十四日には胎蔵灌頂を空海から授けられた。
 また、翌年三月には最澄の弟子十七名が改めて金剛界灌頂を伝授されている。
 この二ヵ年の三回分の記録が空海の直筆で残されており、国宝に指定されている。
 最澄とともに結縁者として和気真綱、仲世の兄弟が加わっていることも注目される。
 真綱、仲世は兄弘世と同じく、文章生から出発して官吏の道を歩むが、ともに地方官の時、自らの俸給、私録をもって国家財政を援け、貧民を救済し、その善政が父のように人々から慕われたという。
 また、真綱は参議の地位にあった承和十三年(846)に、法隆寺の檀越である登美直名が、その職権を乱用して不当に寺の財物を売り払い、金品を横領した件で、同寺の僧善愷から訴えがあり、これを審理の結果、登美直名もその罪状を認め、檀越にあるまじきこととして、厳しい罪科を下すことになった。
 ところが、これに激しく異議を唱えたのが、その当時権勢並びなき状態であった式部少輔右少弁伴善男であった。
 善男の力を恐れた明法博士らが正論を述べぬため、裁判の結果が枉げられてしまった。
 ついに真綱は参議の職を辞し固く山門を閉じて、病なくして世を去った。
 すなわち、閣僚級の人物で、政治の不正を憂いてハンガーストライキを続けつつ、亡くなった最初の政治家といえる。

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