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寺宝紹介
□ 伝平重盛像・伝源頼朝像・伝藤原光能像
後白河法皇が文治六年(1190)、御幸されるに先立って、文治四年に寺内に仙洞院を建てている。
やがて、建久三年後白河法皇崩御の後、その室内に掛けられていたのが有名な似絵である。
『神護寺略記』によれば、後白河法皇以下5名の名前が明記されており、中央に後白河法皇像、これに対して左右に源頼朝像、平重盛像、下座に平業房像、藤原光能像が、いずれも視線を法皇に向き、お仕えする形に配されていたと想像される。
このうち法皇象は室町時代の写しのみとなり、業房像は現存していない。
なお、『略記』では「藤原隆信一筆也」と記しているが、三幅の筆致は三者三様であるため、全体の構図は隆信の指導によるとしても、一門の手分けによると考えられる。
近年、米倉迪夫氏が発表した新説は新聞にも報道され、大きな反響を呼んだ。
ある出版社などは、その後の学会の反論をまったく無視して、伝源頼朝像の表記を百五十年も時代の下る足利直義に変更するところまででてきている。
現時点では、伝源頼朝像の表記を変更する必要はない。
時代も、十三世紀初頭をくだらないというのが穏当なところであろう。
米倉氏は、伝源頼朝像の比較対象として妙智院所蔵の無等周位筆「夢窓疎石像」を取り上げて、表現が類似しているとしたうえで、『東山御文庫文書』の足利直義が康永四年(1345)、尊氏と自分の画像を神護寺に奉納したとある願文の写しを紹介し、重盛を尊氏に、頼朝を直義に比定している。
それに対し、宮島新一氏は『肖像画の視線』のなかで、米倉説の方法論を批判している。
米倉氏は、重盛像と光能像をそれぞれ尊氏、義詮像とするにあたって、類似性の証明(似ているか似ていないか)をもちいている。
だが、日本の歴史的肖像画では、顔の類似だけから同一人と判断できるケースはごく限られると宮島氏は主張する。
また、神護寺に奉納されたとされる尊氏、直義像は、その後、寺の内外に一切の記録がない。
『神護寺最略記』(江戸期の写本 1394年まで遡る)にも無いし、『高雄山神護寺規模殊勝之条々』(1408年写)にも無い。
一方、両写本とも略記と同じ頼朝像の記事を載せている。
どちらが像主の可能性が高いかは、あきらかだ。
足利二像は、奉納後早い時期に寺外に持ち出されたと宮島氏は推測している。
また、有職故実を専門とされる近藤好和氏は、「『次将装束抄』と源頼朝像」(『明月記研究』第二号)のなかで神護寺三像は十三世紀前半まで遡らせることが可能であること、『直義願文』より『神護寺略記』の方に神護寺三像との関係を認め、米倉説を批判している。
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